東日本大震災から5年が経ちました。

色んな方が色んな形でこれまで復興支援に関わってこられたと思いますが、私も微力ながら、震災から1ヶ月後の2011年の4月10日、荒れた石巻の地に立っていました。

まだ結婚もしていない頃の話です。

3月11日の悪夢のあと、何もできない自分に嫌気がさして、幸い身軽だったので、ボランティアに申し込んだのです。

あの時の話をこうやって書くのは実は初めてなのですが、5年という節目に勇気を出して、一部ですが思い返してみることとします。

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↑仙台駅前のコンビニ。1ヶ月経っても、この状態。

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↑道路の陥没もそのまま。

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↑ボランティア拠点に貼ってあった、横断幕。

 

 

仙台駅から石巻市まで、信号も灯っていない危険な道路を、現地に就職した親切な友人に車で送ってもらいました。

そうして到着した、石巻拠点。

 

説明によると、私の明日の任務は、近くの中学校(避難所)で”お湯だし”をすること。

当時4月とはいえコートが必要なほど寒く、避難所で生活している方があたたかいものを食べるにはお湯が必要ということで、湧かしているとのことでした。

印象的だったのは、

「避難所の子どもたちとは距離を近づけすぎないで。あなたはずっといられる訳じゃない。別れる時に寂しい想いをさせないで。」

という、ボランティア監督の言葉でした。

その言葉はずしりと胸に響いて、「人のためになる」というのはどういうことか、深く考えさせられました。

そうか、子どもたちと思い切り遊んで懐いてもらったら、いいことをした気分になるけれど、自分はすぐに去る身だということを、自覚しなければいけないんだ・・・

 

・・・

 

その夜、寝袋に入って目を閉じたものの、余震が大きく、その度に建物がギシギシと揺れます。

ああ、今避難生活をしている方たちは、こんな不安の中でもう1ヶ月も毎日過ごしているんだと思うと堪らなくなりました。

 

・・・

 

翌朝から、避難所でのボランティアへ。

今でも覚えているのが、90歳のおばあちゃんがお湯の列に並んでいたのですが、手に持っていたのはなんと、ベトナムの「フォー」のカップ麺でした。

おばあちゃんの90年の人生で、もちろん初めての出会い。

「こんなもの食べたことがねえ」

と、目を丸くして話すのがなんだかおかしくて、でも笑っちゃいけない、ただでさえ慣れない生活の中で、いつもうどんやそばを食べていたおばあちゃんが、「フォー」に挑まざるを得ない状況が、早く終わってほしいと願ったものでした。

 

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子どもたちと遊ぶこともあったのですが、監督の言葉が頭をよぎります。

つかず離れず、そっと一緒に遊ぶようにしていましたが、驚くようなことがありました。

それは、1人の小さな女の子が、まるで王様のように、他の子たちに命令を下していたのです。

どういうことだろうと思っていたら、現地の人が教えてくれました。

「あれは、大人のマネをしているんだよ」と。

避難所の集団生活の中で、物資を配る時などは、どうしてもその場を仕切らなければいけません。

そういう大人たちの様子を、子どもはつぶさに見逃さないのだと、この時知りました。

 

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別の女の子が私の耳元で、小さな声でいいました。

「となりのクラスの子がねー、死んじゃったんだよ」

こんな時どんな風に返事をしていいのか、私にはわかりませんでした。

淡々と話すその子の前で、涙を見せる訳にもいかず、「うんうん、そうなんだ」とか、情けない返事をしていたように思います。

 

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2日目は中学校ではなく、街に出て家屋の瓦礫を片付ける作業を行いました。

あたり一面、瓦礫の山、山、山。

つんと鼻につく、潮とヘドロの強烈な匂いをマスクでなんとかガードして、スコップで泥をかき分けます。

信じられないほど巨大な紙のロール(直径4メートルくらい?)が、製紙工場から民家の庭に流れこんでいたり、とにかくガラスも粉々で、どこに何があったかなんて、皆目検討もつかないほど荒れ果てていました。

私が行った時にはそういったことはなかったのですが、実はその後も残っていたボランティアの方は、別の民家の泥かきの時に、残されていたご遺体に遭遇したそうです。

ご遺体が埋まった家に、知らずに1ヶ月通って泥かきをしていたご家族の方は、大変なショックを受けて、泣いていらしたそうです。帰京後にボランティア仲間からその話を聞き、胸が詰まるような想いと共に、津波の恐ろしさを改めて知った出来事でした。

 

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そして迎えた最終日、3日目の午後は、ちょっと残念な作業に従事しました。

それは、全国から送られてきた、「いらない支援物資」をまとめ、捨てる仕事。

中古でよれよれの服、手作りで気持ちがこもっていたとしても誰も着ないような下着、あきらかなガラクタ・・・そういったものは、次々にゴミ袋に仕分けられ、現地の負担で処分することになってしまいました。

「人のため」とは何だろうと、この時再度考えさせられました。

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3日間の滞在の中、何よりも私の目に焼きついて、忘れられない光景が2つあります。

1つは、日和山近くの仮墓地です。当時遺体を仮埋葬していた場所で、もちろん外からご遺体は見えませんが、土の上には番号が書かれた木の札が、一定の間隔を開けて立てられていました。

何気なくその番号を見ると、2000番台。

気づいた瞬間から、しばらく震えが止まりませんでした。こんなにも多くの人が・・・頭ではわかっていたけれど、目の前で並んだ木の札とその番号は、そこに命があったこと、それぞれの命に歴史があったことを、直接私に訴えかけてくるようでした。

 

もう1つは、遺体安置所の体育館の前に貼られた、亡くなった方のリストです。

遺体が拾われた場所・着ていた衣服などの特徴・お名前がわかる方はお名前などが書かれています。

そして何より、年齢。

0歳、1歳、2歳・・・そうした小さな命のリストが次々に目に飛びこみ、ただただ、涙が止まりませんでした。

 

・・・

 

5年たった今日、改めて、思います。

今、何の苦労もなく息が出来て、大切な家族や仲間がそばにいて、おいしいご飯を食べられる、それが全て、どれ1つとっても当たり前ではないということ。

そして、残された教訓を、未来に向けて学び伝えていくことの大切さを。

 

特に5年前と違うのは、今私は、私が守らないとどうにもならない小さい人と暮らしているということです。

いざ揺れがきたとき、次に何をしたらいいのか?

どうやって抱っこして、どこにどうやって逃げたらいいのか?

保育園にいたらどうするのか?そういえば、非常時メーリスというのがあったから、スマホだけは充電満タンにしてなきゃ・・・

 

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yorimichiでは以前、被災地のママたちがまとめた防災の本を紹介しました。

もし、まだ読んでいないと言う方、ぜひぜひ手にとってみてください。

kozure

被災ママ812人が作った子連れ防災手帖

震災の翌日に多くのこどもたちが、ストレスによる「けいれん」で倒れたなど、私はこの本を読むまで知りませんでした。

この本だけで全てOKという訳ではないかもしれませんが、まずは読んでみていただきたい一冊です。

 

 

また、都内の人しか入手できなかった「東京防災」が、書店での取り扱い及び、Amazonでも中古で購入可能です。

BOSAI

東京防災

※書店だと140円、Amazonだと1000円以上の値がついているようなので気をつけてください。

 

◇過去記事:【 防災意識向上】『東京防災』がスゴい!覚えておきたい防災アクションまとめ。

 

 

わが家もこの土日で、避難リュックの中身を入れ替えたいと思います。

(去年の月齢の内容になっている・・・)

 

それにしても・・・5年経った今も、約17万4千人もの方が避難生活を送られていることに衝撃を覚えます。

 

妊娠してからは行きにくくなってしまいましたが、時々仕事や観光で被災地を訪れる度に、少しずつ瓦礫が綺麗になって、復興が進んでいるのは肌で感じていました。

 

でも、まだまだ、震災は終わっていないんだなと。

 

一日も早くみなさまが安心して暮らせますように。

亡くなった方が天国で笑顔でいられますように。

残された方の悲しみが癒えますように。

そして現地にたくさん観光客が来て、復興が促進されますように。

美味しいものがい〜っぱいあって、美しい自然がぶわーと広がっていて、

お酒にめっぽう強くて、芯があって、あったかい人たちが住む東北が、私は大好きです。

(もちろん悪い人もいるだろうけれど、私が出会ってきた人たちはみんなこうだったので)

 

心より、お祈り申し上げます。